最深700m、池島の海底炭坑トンネルを撮る。
2018年9月7日長崎県長崎市池島炭坑坑道跡にて撮影。
かつての石炭の炭坑地、長崎県池島へ。
長崎県の池島(いけしま)へ行きました。池島は西彼杵半島の西方約7kmに位置した、周囲4キロ程度の小さな島です。30キロほど南東の方向には、有名な端島(はしま・通称:軍艦島)があります。
池島は、明治時代から石炭の炭坑として栄えた島です。昭和45年の炭鉱最盛期の人口は8000人近くもいたそうです。人口密度は現在の都心をはるかに上回っていました。ただし、2000年前後の電力自由化や、海外の石炭輸入がはじまると、それに抗えず、2001年に閉山となりました。多くの方が解雇され、島を去りました。閉山からすでに20年以上になりますが、まだ100人ほどの方がお住まいとのことです。
島を渡る前日、東京からジェットスターで一気に長崎空港まで渡りました。長崎駅から一般のバスで西海市樫の浦(かしのうら)の民宿を目指しました。2時間以上かかりましたが、西彼杵半島(にしそのぎはんとう)の海岸部を走るバスからの眺めは素晴らしいものがありました。夕陽が海を染めながら沈んでゆくのをバスが追いかけてゆくのです。途中まで、学校帰りの中学生の女の子がいました。毎日こんなに時間をかけて通っているのでしょうか。彼女は、もうそんな光景には慣れっこなのか、ひたすらスマホをいじりながら下を向いていましたが。民宿には20時前に到着し、おいしいご飯をいただいて、入浴。すぐバタンキューと寝てしまいました。
翌日は5時起床。ちょっと早めにフェリーが出るあたりを下見しておきます。ところが6:40発だと思っていたフェリーが、6時前からどうも慌ただしいのです。念のため船員に尋ねたら、「もう今から出ますよ!」と言われたので、飛び乗るようにして難を逃れました。なんと、本当は30分も早かったのです。時刻表を見間違えたのでしょうか…。
経験上、痛感しているのですが、地方の船やバスはよくダイヤが変わり、またシーズンによって変動することがよくありがちです。地元の方は慣れっこなのですが、仮に臨時の掲示が貼ってあっても、これがまた旅行者にはわかりにくい…。私はこんな際どい経験が、二度や三度ではありません。「聞くは一時の恥」と割り切って、ちょっと聞いてみることを強くおすすめします。
宿は「中央会館」、食事は「かあちゃんの店」
30分ほどで池島に着きました。宿は中央会館という、まるで中学高校の校舎みたいなところで宿泊したのですが、料金は格安でした。食事は200mほど離れた「かあちゃんの店」という中央会館の管理人の奥様が経営されている食堂で美味しいタコライスをいただきました。(ただ2023.05現在は残念ながら、この食堂は閉店されている様です。)
宿泊した中央会館の部屋の窓からは、南東に拡がる東シナ海を眺めることができました。目をこらすと、ぽつん、ぽつんと島らしいものがいくつかありました。「軍艦島?」と思われる島も見えたのですが、はっきりとは確認できませんでした。この当時は「超望遠レンズ」を持っていなかったのが残念です。
トロッコに乗り「炭坑体験ツアー」へ。
さて、メインの画像は池島炭鉱の坑道跡です。私は「こんな小さな島の山から、そんなに石炭が出たのだろうか?」と不思議だったのですが、「炭坑体験ツアー」に参加して、その謎が解けました。石炭は、山からではなくて、海底から掘り出していた「海底炭坑」だったのです。
炭坑の深さはなんと700m以上、距離は、総延長でのべ100km近くあったとのこと。あまりの長さに人間が移動するためのベルトコンベアの「マンベルト」というものが敷設されていて、それで移動している映像も見ることができました。
この日のツアーの参加者は10名ほど。まず、受付でヘルメットを渡されました。私はアタマがデカイので、なかなかうまく入らず、あごひももキツくて難儀しました。他の皆さんはアッサリかぶれていたのに…。続いて、当時のビデオを見ながら、炭坑の歴史や見学の注意事項のお話を受けました。
さて出発です。トロッコに乗り、ゆっくり、ガタンゴトンとトンネルに入っていきます。当時現役で働いていた方がガイドをされていました。途中停車し、「ドラムカッター」という石炭を採掘する機械や「穿孔(せんこう)機」が稼働するところも見せていただきました。「ドラムカッター」の先端は、一見、円盤型のノコギリ状に見えたのですが、よく見ると、ひとつひとつの刃は平らではなく、円錐状の「爪」の形をしていました。しかもこの爪の部分だけ、ネイルアートみたいに真っ白。恐竜の歯みたいです。回転すると、昔の円谷特撮映画「海底軍艦・轟天号(ごうてんごう)」を思わせる迫力でした。しかし、実際の穿孔作業の時は、坑道の中で反響したでしょうから、とんでもなくうるさかったでしょうね。
実際の坑道労働は、真っ暗だった。
ところで、ツアー終盤になって入り口に戻りかけてから、ガイドの方が「当時の坑道は、こんなに明るくはなくて、頭につけたライトだけでした。」と話してくれました。そういえば、コースの中ではLEDとか蛍光灯がずっと照らしてくれていましたが、よく考えれば総延長100kmのトンネルのすべてをこんなに明るく照らせたワケがありません。
「ちょっと、ここで当時の明るさを体験してもらいましょうか。」と、一時的に照明が消されます。(もちろん、パニックになる人もいるかもしれないので、事前に各自が大丈夫かを確認し、消灯時はけっして動かないように念を押してくれました。)真っ暗です。ガイドさんの頭の電気だけが点灯されましたが、それはもうロウソクの灯のようでした。「こんな環境で、採掘してたのか…。」と、絶句してしまいました。
すぐ照明は元に戻りましたが、当時の実態を知ってショックでした。また当時の電灯は、背負っていた電池に強力な酸の液体が使われていて、これが漏れてしまい、大やけどを負ってしまった人達もいたとのこと。他にも、落盤等の事故で亡くなった方も大勢いたことでしょう。
昔の日本には、こうして国の発展を支えてくれた人びとが大勢いたのですね…。
いまさらながらですが、本当に感謝して毎日を暮らしていかなくては。
坑道内は最低限の照明でしたが、ISOを3200〜6400に設定することによりなんとか撮影することができました。フラッシュを焚いて撮ることもできたのかもしれませんが、なるべく当時の雰囲気を残しつつ撮りたかったので、ここではほぼすべてノンフラッシュでの撮影を心がけました。